2017年06月21日

共謀の野望

中学の時だったか、親にせがんで分厚い(その分値も張ったと思う)東宝怪獣の設定資料集を買ってもらった。ミニチュアの製造法やらヘドラの初期コンセプトデザイン画やらヤマタノオロチの首の操演方法などをその本で知った。「神は細部に宿る」という至言もそこで知った。
それまでぼんやりと観ていた怪獣映画に、途轍もない工夫(K.U.F.U.)そして思想が存在することに驚愕し、そこから更に一段階面倒臭いオタクになっていったのだ。
また、好きな映画のコメンタリーやメイキングなどは何度も繰り返し観てしまう。ディズニーやピクサーのメイキングなどは勉強になるうえに思想や姿勢の面で襟を正されるし、宮崎駿のドキュメンタリーは観るたびにその人間臭さに腹を抱えて笑うし、そこに現れる創作者のエゴやプライドは、ときに映画本編よりドラマティックであるのだ。

ひとつの作品が完成するまでに、途方もない「選ばれなかったルート」がある。「使われなかったアイディア」がある。それこそ、並行世界が収束するように、本来それらは存在しなかったのと変わらないものだ。作品は作品で完結すべき、そうならば埋もれていればいいのかも知れない。
そして、「選ばれなかった」理由は、決してポジティヴなものばかりではない。予算、納期、道徳や倫理や忖度。それらを明示するということは、単なるエクスキューズなのかもしれない。言い訳、それは創作者として格好悪いのかも知れない。

しかし、良くも悪くも我々はインディペンデントで、インディーズで、そんな格好の良い"創作"などできやしない。芸術的(アーティスティック)というより人工的(アーティフィシャル)に、狙い、企み、企て組み立てるのがアガリスクエンターテイメントだ。造り手と観客の距離はまだまだ近い。だからこそ、できることがある。

しっかりとした思想と戦略があれば、"企画"は立派なエンターテイメントたり得る。
少なくとも、おれが好きで、楽しんできた設定資料集はメイキングは、充分に魅力的だった。

おれは、演劇をオープンソースにしたいのだ。

表現が天才のもので、他者から理解されない"魔術"だった時代は終わったよ。エンターテイメントは再現と再構成が可能な"設計物"で、そしてその造る姿自体が既にエンターテイメントで、でも手の内を明かしても"マジック"が消えない、それがエンターテイメントなんだ。

そういうものに、私は、私たちは成りたい。


アガリスクエンターテイメント第24回公演〜その企画、共謀につき〜


どうぞ、お楽しみに。というか、一緒に楽しみましょう。今回のは、そういうやつです。


posted by 淺越岳人 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 芝居 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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